ゆれる。

「後日」が、こんなに後に。しかも、ものっそ長くなり…。まあ、何だ、お暇で気が向いた方だけ斜め読みしたらいいんじゃないスかね。すんません。思いきりネタバレ…とかは無いんですが、抵触しております。多分。そういうのがお嫌な方はお気を付けて。テレビを観る時は、部屋を明るくして離れて観てね!
13日、火曜日。二度目の「ゆれる」をシネカノンにて鑑賞。一度目は、自分の中にある兄弟(と、真木ようこ扮する幼馴染み)それぞれの部分に共感を揺さ振られて、ショックを受けたきりだった。ショックを受けたまま、ただもう一度観たいとばかり思っていた。共感というか、自分の中にある様々な感情を引きずりだ出された。兄弟、父と子、都合のいい女、家族。奪われること、奪うこと。愛。憎しみ。物語なのだから当然のこととしても。
筋を追うだけだった一度目よりも、二度目は色々と楽しめた。切り取られる視点の美しさ、真木ようこのずるさエロさ、香川照之の柔らかな不気味さ、街の風景。田舎の、何処にでもある単調な風景の虚ろさと生々しさ。
オダジョの「舌」も、変な笑みを浮かべないで見れた…筈。いや、駄目だったかも。あのオダジョはまずい。世慣れているくせに、所在無さ気な顔をする。女なんて居なくていいのに、女に甘える。父に疎まれていると他人に言い放つのに、反発しあうしか出来ない父に甘える。甘えるくせに逃げる。溺れない。本当に大切なものなら、何処までも守ろうとする。簡単に傷付ける癖に、傷付けまいとする。傷つけたことに傷付く。逃げるくせに、逃げていることに傷付く。あれは大変まずい。ほんとにまずい。オダジョに興味は無いが、あんな人が身近に居たら何もかもを幾らでも差し出してしまうくらい、ピンポイントにやばい。特に顔と声と話し方と態度。見た目全部やんけ。段落を別にしてしまうくらいに好き…な自分がキモい怖い! や、オダジョな人がそこらに転がっていて下ったとして、ワタクシなぞがお相手にして頂ける訳無いのですけれども。い、いいじゃない想像くらい!(多感なお年頃)(三十路) 想像の翼を広げたっていいじゃない!(不死鳥並の)

「誰の目にも明らかだ。最後まで僕が奪い、兄が奪われた」

奪うこと、奪われること。否。あれは奪う側からの目線でしかない。奪われる側にも非はあるのだ。奪われるようにしかしない、出来ない。力無いことは、持たないことは、持とうとしないことは、罪だ。力ある者、奪う者を羨み妬むのなら。自ら差し出し、奪われるようにしておきながら「奪われた」と叫んではいけない。それが兄の罪だ。奪われないかもしれないと願う気持ちがあったにせよ、山羊を差し出したのは彼なのだから。差し出したもの以上を見返りとして求めてはならない。後からあんな形で「裏切られた」と責めるなら。そう思う。

――多分、また書くなこりゃ。